20年前、私はネットワーク社会に孕まれる危険の一つを以下のように訴えていた!

1まえがき

 21世紀を4年後に控えた1997年、今から20年も前に私は将来迎えるであろう21世紀ネットワーク社会の脆弱性を以下のように指摘していた。80年の歴史を有し、会員数当時4万人を有する我が国有数の学会が発行する学会雑誌に於いてである。今から思うと非常に大きな意味のある指摘であったと言えよう。

 21世紀を目前にして、巨大なスケールの情報通信ネットワークが、様々な形で現代社会にインパクトを与えつつ、地球規模で構築されようとしている。電子情報通信技術を基盤に構築されるこれらのネットワークの成否が、21世紀人類社会の浮沈の鍵を握っていると言っても決して過言ではない。

文献(1)p.97より



 21世紀ネットワーク社会の浮沈の鍵を握っている電子情報通信技術の世界で何が起ころうとしているのか?何故危険なのか?何故この危険が野放しにされているのか?このことについて20年も前に、私は放置されたままとなっている危険を次のように指摘し、憂慮していた。 何が危険であったのか、読者諸賢によく考えていただきたい。

 人類の長い技術の歴史の中で、次の三つの能力、すなわち

  1. 演算能力(例えばそろばん)
  2. 通信能力(手紙、19世紀以降では、電信・電話を伝える針金)
  3. 記憶能力(紙と筆、活字)

    は、社会活動を円滑に進めるために不可欠な技術として、それぞれが独自の世界を築き、貢献してきた。注目すべき事実は、以下の二つの点である。
  1. 演算、通信、記録の各能力を支える技術が、1960年以降、
    そろばん → 電子計算機
    針金   → 光ファイバ
    紙    → 半導体メモリ
    に置き換えられ、そして、技術としての受入れ態勢が十分に醸成されるいとまもなく、世の中に定着し、かつ、これらの技術が爆発的に成長し続けていること。
  2. 三つの能力が互いに複雑に影響しあい絡み合いながら、ネットワークという閉じた世界に取り込まれていること。

文献(1)p.97より



 私はこのことこそが大きな危険の要因すなわち人間社会を崩壊しかねないファクターであることを強く指摘していた。何故非常に危険なのか、2つの観点からこの危険を論じることができよう。その一つは、従来の演算、記憶、通信の技術を担(にな)っているそろばん、紙と筆、針金とは上述のように互いに独自の世界を築いており、これらが複雑にからみ合って異質と思われる技術の世界を作り出すというようなことはなかった。
 しかるに現社会においてはメモリに記憶されたデータが計算機群によって高速に演算されギガビットネットワークという通信媒体を経て一瞬にして地球の裏側に伝えらてれる。超高速計算が必要な場合は多数の計算機を高速ネットワークで結び、超大容量メモリを効率よく有効利用して現代の社会活動を支える原動力となっている。
 歴史的にはこのようなネットワーク社会を構築するための演算・記憶の通信という三要素からなる総合技術を情報技術(Information Technology:IT)と呼んでいたのであった。私自身も1980年以降ITと呼んでいるので、以下ITと呼んだ場合にはこのような意味で使っていることを理解していただきたい。今日一般的に使われるITはInternet Technologyを意味すると考える姿勢が強く望まれる。

 一方、私が強く指摘したい大きな危険は情報技術の光は見えるけれど影の部分が殆ど見えない。このことこそが大きな危険である。
 このことは具体例で考えてみると明白であろう。
 例えば現代社会を支える従来の航空技術、鉄道技術、車両技術等の交通技術は、これらの技術についての致命的に重要な要素であるスピードについて如何に進歩したかという点について考えてみよう。現21世紀の時点、すなわち2018年の時点で考えてみるとスピードという点からの進歩は誠に遅々たるものであることが分かる。
 例えば現代ジェット旅客機は毎時1000kmという超音速であるのに対し、70年以上も前の太平洋戦争時代、我国が誇ったプロペラ戦闘機“零戦”は毎時570kmであった。交通技術に関しては重要な要素である速度は旅客機と戦闘機の差があるとは言え僅か1.8倍の進歩である。
 交通技術は人類社会に非常に大きな光、福利をもたらしているが、その一方で、影の部分としての悲惨な交通事故が毎日のように報じられ、また多数の死者を出す航空機事故などが時として報道されている。

   非常に注意すべきことは従来技術は光と影の部分が明白に目に見える形で現れるのに対し、情報技術(IT)においては影の部分が影として見えない恐ろしい影、真に腹蔵されているため、私達の目には見えない形で伴われているということなのである。

 その危険は何か?少し歴史を振り返ってみよう。電子情報通信技術においては
上記: のそれぞれ1960年以降、めざましい技術上の発展(ねずみ算的発展)を遂げ、今日の社会活動を強力に支える技術として歓迎され受け入れられている。
 しかし、この爆発的な技術的発展こそが破滅的な被害を人類社会にもたらす可能性を孕んでいることに最大限に注意しなければならない。
 全く残念なことであるが、その危険が真に腹蔵された危険であるために、人々は全く気付かないか、あるいは万が一気付いたとしてもこれに対処するのに自らは乗り出さず、いわば人任せにしていることである。技術に関する人達のほとんど全ては、大学人等も含めて私が経験してきた限りでは棚上げしているというのが悲しむべき現状である。

 私は20年前、水面下に腹蔵された大きな危険を
  1. 良き“シンボル”の消滅の危機
  2. 時間、空間、人間という言葉に共通に現れてくる“間”の受容
という点にあることを指摘した。しかし、この警鐘は殆んどというよりも全く無視されたまま今日に至っている。

 20年前に著した私の文章の中で、良き"シンボル"の消滅の危機について分かりやすく具体例で説明した箇所を選んで以下に紹介しよう。

電子マネーは富の良きシンボルとして機能するか
 貝がら、骨、石、種子等が、美、富、力等のシンボルとして太古の人々の装飾品となり、やがて、いわゆる物品貨幣のような形で好みの品物を手に入れるために使われていたことであろう。物品貨幣は、時を経て鋳造貨幣となり、富の片寄り、価値観のゆがみ等の影の部分を伴いつつも、富のシンボルとして社会システムに円滑に機能させていく。やがて紙幣が登場するが、製造コストという点では銅や銀製の貨幣に比べ低くなっているにもかかわらず、はるかに重い存在感を人に与え得る点において、改めてシンボルとしての、高い評価を紙幣に与えねばならないと思う。 

文献(1)p.101-102より



 私は電子マネーの時代の到来を危惧する余りに紙幣の時代に戻ろうと主張するのではない。

 私が主張したいことは、相当な覚悟を決めて電子マネーを受け入れて欲しいということである。より具体的に表現させていただければ以下の通りである。

 人類はシンボルと実体の間に適切な距離を置くことによって心性を発展させてきた。数百年、数千年あるいはそれ以上の時間をかけて、シンボルと実体との間に適切な距離を起き長い歳月この距離を大切に守って生きてきたのである。我々はこの事実に最大限に注目する必要があるのである。

 しかし、1948年トランジスタが出現し、その集積化が加速的に進展すると前述のように
  1. 演算技術
  2. 記録技術
  3. 通信技術
が指数関数的進歩、すなわち速度、容量等が倍、倍に増えていく“進歩”が1960年以降進められてきている。技術の歴史で全く未経験の指数関数的進歩が始まったのである。
 前述のように一般に交通技術では速度の点で改善が進むとサービスの向上という光の部分が自明となるだけでなく、事故が起きればより悲惨な結果を引き起こすという影の部分もまた自明である。
 上記演算技術、記録技術、通信技術の進歩がもたらす光の部分は自明である。しかし、影の部分が全く見えない。私が影が影として見えない真に腹蔵された影と呼ぶ由縁である。

 20年前、私はこの影について以下のように述べていた。

 電子マネーの実用化を急ぐ余りに、以上のような三千年に近い歴史をもつ貨幣、そして紙幣のシンボルといての大きな存在意義を軽んずることは、将来に、計り知れないほどの大きな付けを残すこととなろう。電子マネーの登場は、(今日の目からみれば)庶民レベルでの金銭感覚の喪失をもたらすであろう。キーボードから叩き込まれる電子マネーが富に対する良きシンボルとして果して機能するか否かを論じることが、セキュリティ・モラルの問題を議論する以前に必要であることは火を見るよりも明らかなことである。世界一とも思われる最高レベルの電子決済システムを有する我が国金融機関が、最近、80兆円ともいわれる不良債権を極めて短期間に作った事実は、紙幣や貨幣等の通過のもつシンボルとしての秀逸生を軽んじた電子の世界の落とし穴であった。このことはまた、良きシンボルの消滅した世界に潜む驚愕すべき大きさの危険を、垣間みたものとして受け止めることもできよう。

 極めて現実的な問題として、電子現金というバスに乗り遅れ、我が国だけが“経済不毛の砂漠”に取り残される危険は、ネットワーク内で考えられる全ての危険を凌駕するほどに大きい。世界の多くの国が、進むも危険、引くも危険という状況にあると考えられよう。この意味で電子現金に伴う危険は、情報セキュリティ技術の守備範囲を超えており、各国のリーダークラスが討議すべき火急の問題である。
 電子情報通信技術者にとって、とるべき次善の策は、電子マネーに良きシンボルの評価を与え得る策(例えば色、模様が変化する等)について、早急に取り組む姿勢が強く望まれよう。

文献(1)p.102より



 1990年3月に実施された日本銀行による不動産融資総量規制が引き金となってバブル崩壊が起こり、企業の倒産が相次ぐこととなる。
 金融機関は資金回収が困難となり、いわゆる不良債権の山を築くこととなった。
 1998年1月大蔵省はこの金融機関の不良債権の総額を76兆円であると発表している(文献(2,3))。
文献:
  1. 笠原正雄,“21世紀、人に優しい社会環境を、人は、如何に生きるか,”信学誌,vol.80,No.8,Aug.1997.
  2. http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/Economy/J_Economic_History/Heisei_Depression.htm
  3. https://ja.wikipedia.org/wiki/バブル崩壊

 我が国が抱える不良債権総額は2017年3月財務省の発表によると1071兆円という天文学的数値に達している。
 これをシンボルとして危険な電子媒体ではなく富の良きシンボルとして私が高く評価する紙幣でこの不良債権の大きさを考えてみよう。100万円の札束は約1センチの厚さである。これを積み木のように積み上げていくと1億円は100×1=100センチの高さとなる。つまり1万円札を1mほど積み上げると1億円という金額に達する。
 この1071兆円(2017年3月現在)という金額の不良債権の高さは実に10,710kmという信じ難い高さとなる。世界の最高峰エベレストは8848mの高さであるから、仮にこのエベレストを積み上げて背くらべをすると我が国の不良債権は1340個のエベレストを積み上げて同じ背丈となる。 この途方もない分量の札束を20トン積載の大型トラックで運ぶとすると5400台必要である。貸し手と借り手の間でこれだけの大型トラックが経済活動で往来したとなると一般市民も何をやっていたのか実体がしっかり理解できたであろう。

------------------------------------------------

 1万円札の高さや重さは、日本銀行に記載されている1億円パックのページ( https://www.boj.or.jp/z/tour/b/shinkan/1oku.htm )を参考に算出した。これによると、1億円パックの大きさは、横38cm、縦32cm、高さ約10cm、重さは約10kgであることから、1万円札1枚の重さは1gであることが分かる。




TOPページへ