第12章 メディアの歴史
―――“メディアとヒーロー”の切口で考えましょう―――

 洞窟画

 古代人類が、私達に伝えてくれる最も古いメッセージは何でしょうか。それは、紀元前二万五千年〜一万五千年前の旧石器時代の人達によって描かれたスペインのアルタミラの洞窟画、あるいはフランスのラスコーの洞窟画などでしょう。当時、狩猟の対象となっていた馬や牛、それに鹿などの大型動物の絵が洞窟の壁に描かれ、今日まで残されているのです。

 当時は、神秘的な呪術の世界でしたから、洞窟画の前で狩猟の成果を願うまじないのようなものが繰り広げられたと想像されます。
 後の世に生きる私達は、これらを美術画として解釈したりしますけれど、実態はわかりません。
 アルタミラやラスコーの洞窟画はさまざまな想像をかり立ててくれ、ロマンの対象にはなりますが、これらの絵画が本来有していたはずのメッセージの内容は残念なことに私たちには正確には伝わってこないのです。


 文字の発見

 先史時代、人類は喜怒哀楽に伴う、サイン的な音声で喜び、怒り、悲しみの気持ちを相手に伝えていたことでしょう。  悲鳴、威嚇等のサイン的な音声がいつしか言語、それも家族単位あるいは少数のグループ単位毎に異なる言語と呼ばれるシンボルに発展していったと想像されます。現代に比べ、はるかに多種多様の言語が、太古の昔、地球上で使われていたに違いありません。

 1万年前、ヴュルム氷期が終わり、溶けた氷が海水を冷やし、狩猟による食料の確保が困難になりますと、人類は農耕、牧畜によって食料を確保するようになりました。新石器時代に、人々は移動生活から定住へと、その生活スタイルが変わったのです。

 紀元前三千年から二千年は人類にとって特筆すべきシンボルの発見と発展の時代でした。チグリス・ユーフラテス両河にはさまれた肥沃な流域にメソポタミア文化が生れ、シュメール文字(楔形文字)が絵文字の段階を経て広く使用されるようになったのです。

 シュメールの都市国家には沢山の人達が集まり、農作物等を中心にした経済活動が盛んとなりましたが、この経済活動を円滑に進めるために楔形文字が用いられ、威力を発揮しました。

 古代メソポタミアの知識、技術のレベルは驚くほど高く、数学や天文学が発達しましたが、これらの発展のために楔形文字の果たした役割は計り知れないものがありました。因みに一日を24時間、1時間を60分とする区分法は、このような高度の知識を背景にして、当時既に使われていたのです。

 古代メソポタミアには粘土版の書物が閲覧できる図書館が、数多く建設されていました。多くの人達がここに集まり、本を読んでいるほほえましい情景が目に浮かんでくるではありませんか。

 文字の発見がどうして重要なことなのでしょう。それは情報収集活動における二つの制約、すなわち、空間的制約、時間的制約の克服が(現代の目からすれば、とりあえずということですが)可能になったからです。
 楔形文字で粘土版に記された書物は、当時、空間的な距離を克服して遥か遠くの地に運ばれそこで読まれたことでしょう(空間的制約の克服)。また現在に残るこれらの古い書物は、シュメール時代のメッセージを長い歳月を超えて私達に生き生きと伝えてくれています(時間的制約の克服)。
 本当にすばらしいことですね。

 もしも旧石器時代に文字が使われていましたら、アルタミラやラスコーの洞窟画の前でどんな儀式が繰り広げられたかを、詳しく知ることができたでしょう。こんなことを考えますと、シュメール文字の誕生は、より一層すばらしいことのように思われてなりません。


 印刷技術と社会

 前節で述べましたように、紀元前三千年から二千年頃、絵文字より発展したシュメール文字は粘土版に記録され、当時の人々に書物として読まれただけでなく、時間、空間の壁を超えて現代を生きる私達に、古代メソポタミアの文化を細かく伝えてくれています。シュメール文字は口承という手段では到底実現し得なかったレベルの内容を正確に私達に伝えてくれます。文字が粘土版という記録媒体に結びついた時の威力を改めて感じることができますよね。

 古代シュメール文字で書かれた書物は、情報伝達・記録という立場からはどのような形態のコミュニケーション手法と考えるべきでしょうか? 現代の表現を借りると、粘土版に書かれた書物は作者とその書物を読む少数の人々の間でのコミュニケーション、つまり一対少数且つ一方向性コミュニケーションの形態です。

 これに対し、15世紀、ドイツのグーテンベルクによって発明されたとされる活版印刷によって可能となった大量の書物のコピーは、一対多数の一方向性コミュニケーション手法として位置づけることができるでしょう。印刷術は、一対多数のコミュニケーションを可能にしたという意味で、今日のラジオやテレビに近い情報伝達手段を誕生させました。

 歴史の教科書では、グーテンベルクの印刷術が、それまで聖職者に独占されていた聖書を一般大衆に幅広く普及させ、宗教改革の大きな力になったと説明されています。
 しかし宗教改革に向けて大衆の力を動かしたのは、(私自身の想像の域を出ないし、また私の不勉強で既に広く知られた事実あるかもしれませんが)、

 “原始キリストの世界に戻ろう!”
 “民衆よ、立ち上がろう!”

といった内容のアジビラが多数印刷され、町や村々の人目につくところに張り出されたことが大きな力になったのではないでしょうか。

 近年、クーデターを起こした側、あるいは守る側が放送局を掌握し、スローガンを繰り返し繰り返し民衆に訴えることが、如何に大きな効果をもたらすかを私達は見聞きしています。このことによって宗教改革を進める側、そしてこれに対抗する勢力が、“放送合戦”を繰り広げたであろうことは、十二分に想像できることでしょう。

 20世紀、ラジオやテレビを通して、政治家が民衆に効果的に訴え、政治を動かす姿を現実に見聞きしたり、あるいは古い記録映画などを通して見たりしてますが、印刷術の発明とともに“政権放送”はスタートしていたと考えることができるでしょう。

 印刷術は、科学技術や文学の普及、大衆化を推進し、これらの発展に大きな貢献をしてきましたが、その一方で“原始放送メディア”として、印刷術は社会に非常に大きな影響を与えてきたのです。

 ここで印刷技術がもたらした放送型のコミュニケーションの形態が、人々の心に何を与えてきたかを考えてみることにしましょう。このことを考えることは、現代メディア社会の中にあって基本的に大切なことでしょう。
 一つの切口として、この放送型コミュニケーションの手法によって大衆の心を掴んだヒーローは誰か、という立場からこのことを考えてみることにしましょう。

 古来、書物は写本によって細々と伝えられてきたのでしたが、活版印刷によって書物を、何千、何万と大量にコピーの形で量産することが可能となり、作家の思想が時間と空間を超えて放送型で大量に大衆に伝えられることとなりました。そして、その結果、印刷術は作家あるいは作品に登場する人物を大衆のヒーローとして誕生させることになったのです。

 15世紀以降、たくさんの作家をヒーロー化した理由として二つのことが考えられます。
 その一つは有名な作家の新作が、今日のテレビドラマあるいは野球やサッカーの放送が街中のいたるところで話題となるように、当時においても大きな話題をよんだことにあると想像されます。そして街中が興奮し盛り上がっていることが、話題の中心となっているテーマに、個人レベルで一層夢中になるといった増幅効果が起こったことでしょう。

 もちろん、古来の口承文学のようなレベルであっても、集まった数十名単位の人々に感動を与えたことと思います。しかし、村中はもちろん、国全体でそのことが話題となり、沸騰するというような現象は稀であったでしょう。

 作家をヒーロー化する第二の理由は、いつでもどこでも作家の思想が再生されるということでしょう。これは口承文学の形態では見られない新しい現象です。
 人々は眠れない夜、枕元に書物を置き、夜遅くまで読書にふけり、作家の思想に触れることができるようになったのです。繰り返し繰り返し読むことにより、ドン・キホーテのような人物が至るところで現れたことでしょう。

 因みにドン・キホーテは、16世紀のスペインの作家セルバンテスの作、『ドン・キホーテ』に登場する人物ですが、この物語の主人公ドン・キホーテは、騎士道物語を脳みそが疲労困憊してしまうほど、夢中になって読んだため、物語の世界と現実の世界とが区別できなくなって、自らも騎士となって、こっけいな冒険の旅に出るのです。
 読書が15世紀以降の人々の最大の楽しみの一つであり、作家や物語に登場する人物が、大衆のヒーローになっていたことが想像されるでしょう。

 さて、以上に述べたような二つの理由によって、作家が実態とかけ離れたヒーローとなって昇華し、大衆の心をしっかり掴んだことは想像に難くないことでしょう。
 19世紀のロシアの文豪トルストイは、大衆のヒーローでした。昨今、プロスポーツの人が行く先々で沢山の人達に拍手、喝采で迎えられるように、トルストイは出向いた先で大衆の興奮のるつぼの中で迎えられたといわれています。
 古い白黒の記録映画を見ると、モスクワ近郊の駅に降り立ったトルストイが、“万才”、“万才”と叫び興奮する熱狂的な市民とカメラのほう列に迎えられている様子が生き生きと映し出されます。書物がつくり出したヒーロー化現象の典型的な例の一つと考えることができるでしょう。

 晩年、全てに絶望し、放浪の旅に出る現実のトルストイとはかけ離れた、大衆自身が自らの心の中でつくり上げた別なトルストイであったかもしれません。

 一対多の一方向性コミュニケーションの代表として登場する書物が何故ヒーローを生み出すのでしょうか? それは以上に述べた二つの理由のほかに、もっと本質的な理由が潜んでように思われます。それは一対多という作者と読者の間を隔てている数の上での圧倒的な格差でしょう。

 因みに、シュメール文字で書かれた粘土版の書物の場合は一対一、ないし一対少数です。こんな場合、読書は書物を作家から自分への直接のメッセージとしてより強く作品の内容を受け止めることができるかも知れません。何かコメントをしなければならない。こんな思いに駆り立てられた読者が、作家のところへ出向き、作家とほとんど対等の立場で書物の内容について語り合うといったことは、日常に見られた光景でしょう。
 そのありさまは、ちょうど昨今の文芸評論家や音楽評論家が、大衆に比べ作家や音楽家よりも上の立場にあると考えて、音楽や文芸作品に対する考えを述べるのと似ているかも知れません。シュメールの昔、人々と作家とを隔てていた距離は意外に小さかったのではないかと思われます。

 現在ではどうでしょうか。ミリオンセラーの場合、百万部世に出たこと自体に、私達は圧倒されてしまい、ともすれば自分自身を百万分の一の読者に過ぎないと過小評価し、結果的に作家をヒーローとして手の届かないところに持ち上げてしまうのではないでしょうか。


 電話の発明

 電話の発明の動機が、“福祉”にあったことは広く知られています。言語障害に悩む人々に光を与えようとするアレクサンダー・グラハム・ベルの献身的な努力の成果が、電話の発明に結びついたのです。

 この発明を支えたのは、祖父 アレクサンダー・ベル、父 アレクサンダー・メルヴィル・ベルの親子三代にわたる非常に辛苦に満ちた言語障害克服への取り組みの姿勢でした。

 偏見に満ち、まじないのような治療法が横行したなかで、科学的姿勢を貫き、親子三代で言語障害克服に懸命に取り組んだのです。福祉に尽くす親子三代の姿勢を見る目は、現代とは大きく異なって、世の中から冷ややかな目で見られていたことが想像されるでしょう。因みに、父アレクサンダー・メルヴィル・ベルは視話法発明者として著名です。

 情報メディアとしての電話の大きな特徴は空間的制約を克服して、例えば地球の裏側にいる人であっても、少しの時間の遅れもなく、生の音声で、細やかな情緒をも伝えることができるコミュニケーションを可能にするということでしょう。

 電話は電信技術に比べ際立った特徴を有しています。何故なら、それまでの通信技術ではどのように努力してみても数字あるいはアルファベットの形をしたつまり文字で表された情報しか伝えることができなかったからです。

 例えば、「モシ、モシ」というメッセージが電信で伝えられたとしても、発信人が男性なのか女性なのか不明ですし、また優しく言っているのか、あるいは逆に怒りをこめて言っているのかも不明です。しかし、電話であれば老若男女の区別はもちろん、言葉のひびき等々を鮮明に伝えることができます。当時の人々には全く想像することもできなかった夢のような通信手段の登場だったのです。

 電話技術にも、もちろん光と影の部分が存在します。影の部分としては、例えば、脅迫電話あるいは無言電話など、新しいタイプの犯罪が実行可能になったことをあげることができるでしょう。

 しかし電話は、お互いに遠く離れていても生(なま)の音声で心と心とを通わせることができるという類(たぐい)まれな通信手段として、今日に至るまで、人々に受け入れられてきました。昨今、携帯電話や、スマートフォンが爆発的な人気をよび、驚異的なスピードで世の中に普及していることを考えてみても、電話が如何に世の中に受け入れられる存在であるかが分かるでしょう。

 非常に驚いたことに、大正14年から昭和元年にかけて、東京では1500円という負担金を支払ってでも、ぜひ電話を購入しいと熱望した人が少なくなかったのです[3]。昭和の初めに1500円でどれほどの品物が買えたのか、私にとっても生まれる前の話で想像することもできませんが、現在のお金に換算すると1500万円ぐらいの金額だったのではないでしょうか。

 今から75年も前に1500円という大金を支払ってでも電話に加入したいという人々が少なからず存在したという事実は、当時、電話が人々にとって如何に魅力的な存在であったかを今に伝えるものとしてとらえることができるでしょう。

 21世サイバー社会の情報インフラの土台は、明治の昔から今日に至るまで人々に圧倒的に高い人気で受け入れられつづけてきた電話ネットワークが形づくったことは、全く疑う余地のないことでしょう。

 電話は情報伝達手段としては、一対一双方向性コミュニケーションの代表です。このように、電話は一対一の双方向性のコミュニケーションの手段であるために、一対多の一方向性コミュニケーションとは異なってヒーロー化現象とは全く無縁の存在でした。一対一双方向のコミュニケーションの真面目(しんめんもく)は心を通わすことであり、ヒーローを生み出す要因にはなり得ないのです。

 これに対し、ラジオやテレビに代表される一対多の一方向性コミュニケーションでは心を通わすことは非常に難しいことです。・・・もっとも、歌手、映画プロデューサー等の放送側は、視聴率によって自らの思想あるいは芸術が、どのように受け入れられたかを僅かながら知ることができ、その結果、喜びを感ずることはできるでしょう。


 レコードの発明

1887年、エジソンによってレコードが発明されるまでは、音楽番組を後世に伝える唯一の手段は、文字あるいは楽譜などのディジタルな記号に変換して記録するという、手段だけでした。

 生の音楽番組、例えば、ショパン自身が弾くピアノ曲を、音の形のままで後世に伝えるといったことは、当時の人々にとっては、夢にすら思うことができなかったことでしょう。

 エジソンによるレコードの発明は、耳から収集する音の情報、例えばオーケストラの演奏をそのままアナログの音の形で記録し、再生できる技術を人類は獲得したことを意味します。このことは、人類が耳から入る音の形の情報に対する時間的、空間的制約をも克服したことを意味したのでした。

 レコードは情報伝達手段としては今日のラジオやテレビに近い一対多の一方向性コミュニケーションのメディアです。一対多且つ一方向性であるために、再びヒーロー化現象、それも新しいタイプのヒーロー化現象が起こります。流行歌手が一度ミリオンセラーを世に出すと、ちょうど作家がヒーローになったように、ヒーローあるいはヒロインとなります。

 有名歌手のレコードを何回も繰り返し聴き、その通りに歌ってみる、あるいは歌ってみたくなるといった新しい“共鳴現象”のようなものをレコード技術は生み出し、これにより私達の生活の中に音楽はより深く浸透していきます。
 ヒトは社会的動物といわれています。私たちが毎日のように耳にする歌を、実際に歌ってみようと思うのもその一つの現れでしょう。

 「相互作用の同期性」という心理現象が知られています(笠原正雄HPの赤ちゃんの人権宣言をご高覧下さい)「相互作用の同期性」とは、もともと大人同志の会話の場面で、相手の発生する音節、単語等に応じて、正確に同期とって身体が動く現象をいいますが、私も、このような行動を自覚することがしばしばです。

 例えば、国際会議のバンケットなどで、外国語のスピーチを聴いていると、会場がどっと爆笑することがあります。私には爆笑の原因が分からないけれど、殆ど無意識に、つまり、笑わないと恥ずかしいというソロバン勘定によるのではなく、笑ってから何故笑ったのかと気付くほど、無意識に笑っています。私自身、こんなことを二度、三度経験しています。
 あとから同じテーブルのヒトに爆笑の原因を教えてもらって納得するのですが、その国の政治家、あるいは有名タレント等の話し方を、声帯模写よろしく真似をしてスピーチをしているといったことが多いです。

 この相互作用の同期性については、佐藤眞子先生編の『乳幼児期の人間関係』に詳しいのですが、同書によると、大人に見られる相互作用の同期性が、ヒトにおいて何時(いつ)ごろから、現れるかを調べたところ、驚いたことに誕生後間もない赤ん坊にも既に行動が観察されるといいます。ヒトの赤ん坊は母親の声に極めて正確に同期をとって動く。しかも、さらに驚いたことにこの赤ん坊の行動は社会に参加することを願望する極めて能動的な行為であるとされています!

 こんなことを考えると幼児達が、歌手の歌をテレビで何回も聴くうちに、自分自身もそうしなくてはならなくなる。つまり自らもそのように振舞うことが、社会への参加願望を満たす行為として自然に現れるものと思います。

 前述の“共鳴現象”は大人においても社会参加への能動的行為と言えるでしょう。好きな歌手の歌を何回も聴くうちに、つい、自分も歌いたくなるものです。私もよくカラオケなどに通い、流行の歌を歌ったことがあります。しかし、流行の歌を歌うことによって社会への参加を感じることはあっても、歌手の歌い方を模倣したいと思ったことはただの一度もなかったように思い出されます。

 テレビにおいては、ありとあらゆる種類のシーンが繰り返し放映されています。テレビの画面そのものが“社会”であり、視聴者は強くその社会に参加していくことを考えることになるのでしょう。


 映画の発明

 情報という立場からみると、20世紀はたくさんの人達が動きのある絵、すなわち映像という形の情報を楽しんだ世紀でした。動きのある絵という形の情報は1889年に発明王エジソンにより映画として誕生しました。

 エジソンは、イーストマンが発明した写真フィルムを用いて撮影した連続写真をキネトスコープと呼ばれる装置に装填した上、拡大鏡を通して連続的に映し出し、その映像を覗き穴から鑑賞するという装置を完成させました。

 エジソンは、動きのある対象物を1秒間に何回となく撮影してとらえた連続写真を覗き穴を通して人に見せるという方法で、人の目に動画を再生することに成功しましたが、1秒間に何枚もの静止画を見せることにより動画を再生するという手法は、今日のテレビにも応用されている代表的な方法です。
 テレビ放送では1秒間に30枚の連続静止画をディスプレイ上に再生しており、私たちは、これを滑らかに動く動画として鑑賞しています。

 前節で述べたように1887年、エジソンはレコードを発明し、音楽や音声などの耳から入る情報を記録することに成功しました。このレコードの発明により、耳から入る情報に対する時間的、空間的制約を克服する手法を発見したのでしたが、それから12年後の1889年、彼は目から入る情報を、キネトスコープという映画技術によって記録することに成功しました。目から入る情報の時間的、空間的制約を克服する手法をも発見したのです。

 耳と目から収集される情報に対する二つの制約、すなわち時間的、空間的制約を克服するための基本的な手法の発見であり、この意味でエジソンの業績は如何に高く評価しても、し過ぎることはないでしょう。

 しかし、エジソンの発明したキネトスコープは覗き穴から眺めるといった装置であったために、映画を楽しむことができるのは、一人だけであって、何人もの人が同時に楽しむことができるというようなものではなかったのです。  現在のように、劇場方式で多勢で映画鑑賞ができるようになったのは、1895年フランスのリュミエール兄弟の発明したシネマトグラフの出現によってです。

 十数年前に放映されたNHKスペシャル“映像の世紀”第一集『カメラは歴史の断片をとらえ始めた』によると、シネマトグラフの原理は当時広く使われていたアーク燈を光源とし、1リットルほどの水を満たした大型の球形フラスコを集光レンズとして用いることにより、フィルム上に焼き付けられた連続写真をスクリーン上に投影するというものであったといわれています。
 シネマトグラフにより多数の人が一堂に会して映画を楽しむことができるようになり、劇場映画の世界がスタートしたのです。

 人類が作った最初の劇場映画のタイトルは、『工場の出口』(1895年)でした。この映画は私の記憶するだけでもテレビ番組で数回紹介されていますが、工場から出てくる女性達が、まるで音楽会か舞踏会の会場から出てくる人と見間違えるほど着飾っているのが、不釣合いな印象で何とも不思議なシーンです。

 工場の出口というイメージにはほど遠く、奇妙な映像でした。何れにしてもどうしてこのようなシーンが、人類が作り出した映像の記念すべき第1号になったのか首をかしげたくなりますよね。

 しかし、よく考えてみると映画誕生後120年以上の歳月が経ち、20世紀は映画抜きでは考えられないことを熟知し、映画技術を代表的な情報技術の一つとして位置づけている私達だから、記念すべき第一号などと大袈裟に考えてしまうのでしょう。当時、映画を作製した側に、史上最初の本格的動画であるといった気負いが全くなかったため、身近なところにあったシーンを取り敢えず撮ったというのが真相でしょう。

 目から入る情報を人類が初めて記録したことの意義は計り知れず大きいと思います。人類の歴史をもゆさぶり兼ねない技術の登場に、発明者のリュミエール兄弟自身を始め多くの人達が気づいていなかったことが、この映画第一号のシーンから伺い知ることができます。

 動く絵という想像もしなかった形態をとる情報の出現! 大衆の好奇心に応えてくれる映画は、一般社会に広く受け入れられました。そして映画は書物の時代とは異なったタイプのヒーローを誕生させました。

 20世紀、映画の世界が生み出したヒーローの代表は映画芸術の最高峰に位置する天才、チャップリンでしょう。

 チャップリンは寄席芸人の子としてロンドンに生まれましたが、若い頃、夢を抱いて米国に渡り、映画の道を歩むことになります。映画の脚本を書き、監督をつとめ、そして自ら主演したほか、作曲もした映画界万能の天才です。

 チャップリンは『街の灯』、『モダンタイムズ』、『独裁者』、『ライムライト』など多数の名作を次々にヒットさせ、人々の笑いと涙を誘い、幅広い層から共感を得ました。

 映画技術というものがなければチャップリンは、どこかの街の寄席の人気者として一生を終えたかもしれません。しかし、チャップリンには、映画という彼の芸術家としての才能を存分に発揮させることができる最高の舞台が待っていました。

 1916年、27歳のチャップリンはニューヨークで映画会社と、米国の当時の大統領の年俸の7倍に相当する破格の年俸、70万ドルで、契約を結んでいます。このことは、当時娯楽の頂点に立った映画と大衆のヒーローとなったチャップリンの人気の凄まじさを如実に示すものと言えるでしょう。


 ラジオの登場

 音情報メッセンジャーの代表としてラジオを、そして動画情報のメッセンジャーの代表としてテレビをとりあげて考えてみることにしましょう。

 20世紀の初頭、無線電話が登場しましたが、その一つの発展形式としてラジオが誕生しました。ラジオは遠く離れた場所から送られてくる音楽番組を、まるで同じ室内で聴くかのように、しかも(電波の伝播時間を無視すると)時間的な遅れもなく楽しむことができます。

 ラジオはレコードにはなかった新しいタイプのヒーローを生むこととなりました。野球やボクシングの試合を、実時間(リアルタイム)すなわち少しの時間遅れもなく全国津々浦々に伝えることができます。ラジオはこの実時間性(リアルタイム性)の効果を存分に発揮した最初のメディアでした。

 ラジオを通して野球やボクシングのゲームの状況を時々刻々、名アナウンサーの美しく感動的な言葉で伝え、全国に興奮の渦をまき起こします。名調子の実況放送を通して、実際に野球場に出向いて感動するよりも、もっと大きな感動を覚えることすらあったでしょう。
 ラジオのこのような名調子の放送は、現実に起こることをどのように感動すべきかを教えてくれるようにさえ思われます。

 ラジオはコミュニケーションの形態としては一対多の一方向性メディアです。繰り返し繰り返し登場する人物、例えば、野球やボクシングの有名選手が大衆のヒーローとして誕生しています。ニューヨークヤンキースの名選手ベーブルースやルーゲーリック、我国では水泳の古橋、野球の川上、大下らが大衆のヒーローとなりました。


 テレビの登場

 テレビと映画

 動きのある情報を映画という形で鑑賞する、つまり映画館で動きのある絵の情報を収集する、というパターンから、日常の家庭生活の中で、テレビというメディアを通してこれらの情報収集ができるようになったのは20世紀中頃のことです。

 技術の立場からテレビと映画とを比較すると、その大きな差は、即座に情報を伝えることができるか否かということ、つまり、リアルタイム性にあります。

 テレビの場合、地球の裏側に起こった出来事を時差の問題を厭(いと)わなければ、ニューヨークの有名な音楽ホールからの生演奏をニューヨークの人達と同時に楽しむことができます。
 映画の場合であれば、フィルムの現像等々の処理を仮に飛行機内で行ったとしても、地球上の裏側で起こった出来事を24時間以内で伝えることは容易なことではないでしょう。

 私は、テレビというものは映画館が家庭に入ってくるようなもので、リアルタイム性を除くと本質的な差はないと、長らく考えていました。しかし、本当にそうでしょうか?

 テレビと映画の差として

  1. 家庭内にあるテレビと人とを隔てる物理的距離は、人と映画館とを隔てる物理的距離に比べ遥かに小さいこと。
  2. テレビのシーンでは繰り返しのシーンが多いこと。

をあげることができるでしょう。これらのことについて少し考えてみましょう。


 物理的な距離の差がもたらすもの

 映画館で何度も涙を流すほどの感動的な映画、あるいは思わず席を立って逃げ出したくなるようなホラー映画を鑑賞し、頭の中が真っ白になった状態で映画館を後にするといったような経験を持っている人は少なくないでしょう。
 しかし、こんな場合であっても、街の雑踏を歩くうちに次第に現実に戻り“ああ、映画だったのか、お話だったのか”と思いながら帰途につく、といったことになるでしょう。映画と現実の世界を比較して、現実の世界の良さをあらためて知るとったこともあるでしょう。

 テレビの場合はどうでしょうか。ベッドで深夜テレビを観賞し、“映画だったのか、お話だったのか”という頭の切り替えもなしに眠りにつく、といったことがしばしば起こるでしょう。

 今から300年も前、スペインの作家セルバンテスは、騎士道物語を昼夜を問わず読みふけったドン・キホーテが、物語の世界と現実の世界の区別がつかなくなり、ついに自らも冒険の世界に旅立つという内容の物語を著しました。

 テレビあるいはゲームの時代の今日、昼夜を問わずテレビやゲームにうち興ずることが、人との精神にどのような影響を及ぼすのかについて考えることは、メディアに携わる人にとって基本的に大切なことです。

 ホラー映画や暴力番組を繰り返し、繰り返し見た上で、また何時間もゲームに打ち興じた上で眠りにつくといった生活が成長途上にある幼少年の世代に如何なる影響を及ぼすかについて考えることは、メディア関係者だけでなく、私たち国民一人ひとりが取り組まねばならない基本的な問題であることが明らかでしょう。

 毎晩のようにテレビ番組に登場するタレント、あるいは人気番組の司会者が、国会議員になたり知事に当選したりするという事実は、繰り返し繰り返しテレビ画面に登場する人物が、大人の脳裏にも刷り込まれ、タレントあるいは司会者の実体とはかけ離れた、ある種のヒーロー像、あるいは非常に身近な人といった印象が形成されていくことを如実に示すものでしょう。

 一対多の一方向性コミュニケーションのメディアであるラジオが、ヒーローを誕生させたように、テレビもまた同じ形態のメディアとして、画面に登場する人物をヒーロー化し、政治の世界にまで送りこんでゆくのです。


 活字、ラジオ、テレビ、そしてヴァーチャル・リアリティ

 ここでメディアとしてのテレビの一つの側面を考えてみましょう。野球のシーン、例えば、四番打者が、日本シリーズで逆転の満塁ホームランを打ったというようなシーンを文章、ラジオ、そしてテレビで伝えたとしましょう。

 文章、ラジオ、テレビは、形式は非常に異なりますけれど、何れも野球のシーンを象徴する人間が編み出したシンボル(コンテンツ)であることにかわりはありません。

 因みにこのシーンを近未来のシンボルであるヴァーチャル・リアリティで再生したとすれば、シンボルとしてのヴァーチャル・リアリティと実際に起こったシーン、すなわち実体とが、ほぼ一致しており、実体に対してほとんど象徴化が進んでいないシンボルを私達は眺めていることとなります。考えようによってはシンボルが消滅した実体だけが支配するいわば有史以前の世界です!

 情報技術の目標は、実体とシンボルの間の距離を果てしなく小さくしていくことにあります。
 ただし、このことは多くの場合、必ずしも正しい方向ではないことに私たちは気付くでしょう。確かに、ヴァーチャル・リアリティで野球のシーンが再現されたとき、人は、百パーセント臨場感と大きな刺激を全身で感じることができるでしょう。しかし、注意しなければならないことは、文章で述べられたものであっても、手に汗にぎりつつ、むさぼるように読み進み、十分な満足感を覚える場合があるということです。

 しかもさらに、注意しなければならないことは、文章は私達の想像力を豊かにし、感性を育ててくれるということでしょう。この豊かな想像力と感性こそが、ホームランを打った四番打者の天にも昇る気持ち、そして打たれたピッチャーの地獄の底に突き落とされたような辛さを、より深く、より強く、より生き生きと感じとることができる源泉だということです。

 ヴァーチャル・リアリティやテレビで野球のシーンを見たとき目を丸くして眺めることができるでしょう。しかし、このことの連続が果たして豊かな想像力と感性を心に育ててるでしょうか。私達は、このことを深く深く考えてみる必要があります。

 もちろん、野球のシーンを文章で知りたいか? それともテレビで知りたいか? と問われれば、誰でもテレビを選ぶでしょう。何が起こったかを一目で、しかも細かく知りたいという大きな好奇心を押さえることは難しいことです。成長しきった大人にとって、このことは全く問題ないでしょう。しかし乳幼児期あるいは青少年期にある世代が果たして大人と同じペースで、実体とシンボルの接近したテレビを観賞し続けてよいのでしょうか。多くの疑問が残されている大きな問題でしょう。


 未来の通信システム

 未来の通信システムでは、送信側と受信側で対象とする情報についての知識を共有します。送信側から“受信者との通信を真に成立させるために伝えるための情報”である差情報IDが、受信側に伝達されます。
 受信側ではあらかじめ用意されている知識に基づいて、送られてきたIDに基づいて元の情報を再生します。これによって送信者が期待する通信が成立するわけです。

 動画を対象とした未来通信方式に関して、これまでになされた研究の多くは、顔画像についての三次元モデル、つまり顔についての電子型紙を、送信者、受信者双方のメモリ内に知識として共有しています。実際に送信カメラの前に現れた現実の顔は、発声、ほほえみ、笑い等によって、メモリに記憶されている三次元モデルと比較して、“ずれ”が存在しています。
 このずれのつまり 差情報IDだけを、送信機は受信側に伝えます。。受信機は、電子型紙としての三次元モデルを、送られてきた“差情報ID”に基づいて修正し受信者に再生します。

 このような標準パターンと現実のパターンのずれ、つまり差情報IDに基づく情報伝達は、ヒトの情報収集活動のそれに非常に近いものです。
 私達の頭の中には今まで見聞きしたものについての標準パターンが無数に詰まっています。すなわち、ヒトの頭の中には、人物、動植物等々の標準パターンがびっしりつまっており、現実に現れた標準パターンからの差を情報として受け取っています。例えば、頭の中にあるAさんの顔と実際に目の前に現れたAさんの笑っている顔とを比べて、その差、つまり普通のAさんの顔に比べて、目じりが下がり、口が大きく開いているといった差の情報を新しい情報として受け取っているのです。
 メモリを大量に利用する未来の通信システムは、まさにヒトの通信手法を模倣しています。

 この未来の通信では倫理の問題が浮かび上がってくるでしょう。グリムの童話「狼と七匹の子やぎ」の物語では、狼が手に白い粉をつけたり、声を変えたりして母やぎになりすまし、子やぎ達を騙すことに成功しますよね。
 将来のサイバー社会において、母親の電子型紙でつくられた顔と声を入手したものが、居留守の子供をヴァーチャルリアル型のスマートフォンで騙し、ドアを開けさせるといったことが起こり得るでしょう。

 しかし、心配ご無用!この問題は実はそんなに心配することではないのです。何故なら現代の暗号技術を応用すると、このような“なりすまし”は比較的容易に撃退できるからです。つまり、受信者の方で撃退することを望めば、情報セキュリティ技術がこの問題を直ちに解決してくれるでしょう。

 しかし、将来、倫理上の問題として危惧されることは、受信者が自分の好みのタレントの顔や声の電子型紙、あるいはライオンやトラなどの動物の電子型紙を購入し、全ての通信相手の顔と声を自分の好きなタレントの顔と声に変えてしまったり、あるいは動物の顔にしてしまうといったゲーム感覚でのコミュニケーションが実現可能ということです。

 このような形でのコミュニケーションはコミュニケーションの内容そのものにも少なからぬ影響を及ぼすでしょう。メモリをふんだんに使用し得る未来通信は、従来のエネルギー、あるいは周波数帯域を十分に利用する方式に比べ、このような倫理上の問題を非常に大きくともなう通信方式でもあることに私達は最大限の注意をしなければならないのです。


 ヴァーチャル・リアリティシステム

 ヴァーチャル・リアリティは、普通、仮想現実感あるいは人工現実感などと呼ばれていますが、必ずしも正確には内容を伝えていないと思います。
 例えば劇場の大型スクリーンに映し出される二次元(平面)画面を、被験者に特殊な眼鏡をかけさせることによって立体視化するとともに、座席を画面に合わせて振動させることによって現実感を持たせるタイプのものも、ヴァーチャル・リアリティと呼ばれています。しかし、狭い意味でのヴァーチャル・リアリティは、いわば全身浸潤型のものです。

 全身浸潤型のヴァーチャル・リアリティでは、被験者は頭部搭載(ヘッドマウント)型ディスプレイを装着しますが、文字通り仮想世界の中に入り込むことができます。前述の劇場形式のものでは、平面的な連続写真によって立体視感を実現していることに過ぎませんから、画面に映し出されたくるまに如何に興味を覚えたとしても、そのドアに手をかけて中を覗き見るといったことは、不可能です。ご家庭のテレビ画面がそうですよね。

 しかし、後者の全身浸潤型のヴァーチャル・リアリティの場合には、ホログラフィによる再生画像のように、目の位置を変えることによって画像の側面、あるいは裏面を新たに視界に入れることができます。まるで不思議な魔法のように、例えばくるまの場合には、ドアを開けて中を覗き込むだけでなく、くるまに乗り込んで、ハンドルを手にして運転することもできるでしょう。

 このからくりは、計算機に直結したゴーグルのお化けのような頭部搭載装置にあります。この装置は、光学系部分と機械系部分より構成されています。


 ホログラフィ技術によって、目の前に映し出された芸術品を見て、本物であるのかそれとも単なる映像なのか、いくら目を凝らして眺めてみても区別がつかず、手で触ってみて初めて映像であることを知ったという経験を持っている人は、昨今では珍しくないでしょう。

 如何に交通機関が発達したといっても、現在の状況では世界の国々に散在する美術館の一つ一つを訪れて、これらの作品を鑑賞することは時間的にも物理的にも不可能ですよね。

 しかし今世紀、ヴァーチャル・リアリティ上で世界の美術館が実現されると、これらの作品の数々を目の前に再現し、これらをあらゆる角度から眺めることができるばかりでなく、(たぶん、開発初期段階では薄い手袋を嵌めるけれど、嵌めたとたんに嵌めているという感触はまったく無くなるといった手袋を使うことが必要となるかもしれません)通常は手に触れることができない作品を、手に取って鑑賞することも、もちろん許されるでしょう。

 『ジュラシックパーク』で古代の恐竜が(コンピュータ・アニメーションの技術によって)鮮やかに生き返ったように、20世紀の映画界で活躍したジョンウエインやチャップリンが、今世紀のヴァーチャル・リアリティの舞台に再び生き生きとして登場するでしょう。

 ヴァーチャル・リアリティの映像が、今世紀、人類の精神と文化に計り知れない影響を及ぼすことは火を見るよりも明らかなことなのです。






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